転々し、酩酊

すなわち、世界ではまだ何一つ最終的なことは起こっておらず、世界の、あるいは世界についての最終的な言葉はいまだ語られておらず、世界は開かれていて自由であり、いっさいは未来に控えており、かつまた永遠に未来に控え続けるであろう、と。(『ドストエフスキーの詩学』P.333)

詩学002 語り得ないことを語るために

 辿町うたげ(id:tadorimachi)です。前回の詩学は「神は細部に宿る――小説のディテールについて」でした。



 小説は語りの芸術だ。どう語るか、どう語らないか、どうしたら語れるか、そういうことができる媒体だ。
 前回の詩学は、どう語らないかについて話した。今回の詩学は、どう語るか、という話をしよう。

 語り得ないことを語るとは、なんとも矛盾した言葉のようだし、そもそも語り得ないものってなんだ? って思うひとも多いかもしれない。
 こう言い換えよう。叙述せずに多くを叙述する
 こうやって言い換えると、前回の詩学とまったくおなじことを今回も語ろうとしていることに気がつく。うまく語らないことと、うまく語ること、というのはコインの表裏の関係のようなものだ。
 うまく語らないことにしても、うまく語ることにしても、そこにはすべては語らない、という部分では共通している。と抽象的なことばかり書くと飽きられてしまうので、本題に入っていこう。

 エピファニー、という言葉がある。日本語で「顕れ」とでもしておこうか。『ダブリナーズ』や『ユリシーズ』や『フィネガンズ・ウェイク』のジェイムズ・ジョイスが文学的な意味を与えた言葉だ。
 wikipediaを引用すると、

 エピファニーとはジョイスによって特有の意味を与えられた語で、ものごとを観察するうちにその事物の「魂」が突如として意識されその本質を露呈する瞬間のことであり、ジョイス以降こうした事物の本質の顕現をテーマとする作品のことを「エピファニー文学」と呼ぶようになった。

ダブリン市民 - Wikipedia

 うんまあ、なんとなくわかる。しかし、このwikipediaの説明は不足しているところがある。《事物の本質の顕現をテーマとする作品》というのは難しいように思えて、とても簡単だ。
 つまり、登場人物にわからせればよいのだ。物語内で登場人物の心情や台詞に、「この物事の本質がわかったぞ!」と言わせたらよいだけで、そこをテーマにしたらよいだけのことだ。でも、そんなものはエピファニーじゃない。
 エピファニーというのは、登場人物が感じ取るのではなく、読者が感じ取るのが最高だ。
 レイモンド・カーヴァーの「大聖堂」という短篇はすばらしい。たぶんほとんどの人間が「顕れ」を感じ取ることができるだろう。
 この短篇を読み終わったとき、僕は、なにかとてつもないことがわかった気がする、けれど、なにがわかったのかまったくわからない。という思いを抱いた。その読書体験の衝撃はなにごとにも代え難く、上質なミステリのトリックが暴かれたときよりも、はるかに強い驚きだった。
 なにがわかったのかまったくわからない。というのは、もしかして本当はなにもわかっていないのかもしれない。うまい文章で、はったりをかまされているだけなのかもしれない。けれど、その文章がはったりだとしても、僕が感じ取ったこの驚きは本物である。読者が感じ取ったものは、すべて本物だ。たとえ誤読であっても、人生経験に照らして読んでいたとしても、それは「あなた」にとって本物なのだ。
 叮嚀に物語を描き、作中における本物を作り出す小説もあれば、カーヴァーのように、読者と小説との対話によって、本物を作り出す小説もある。つまり、読者が読むことによって、はじめて本物がうまれる小説がある。そのような小説は、どのように書いたらよいのだろう。

 読者が感じ取る本質は、小説が一から十まで語るものではない。小説が本質を一から十まで語ってしまうと、それは読者である「あなた」が感じ取った本質ではなく、感じ取らされた本質だ。読者が感じ取る本質は、小説は語り得ない。けれど、ならば、小説はどうしたらよいのだろうか。語り得ないものを、どうやって語るのか。それはやはり、読者に感じ取れるように語るしかないのだ。
 小説は補助輪のようなものなのかもしれない。読者が本質を感じとるための「導き」を担う。失敗することも多いだろう。作者は、読者のすべてがわかるわけではないし、むしろ一割もわからないかもしれない。けれど、きっと読者はわかってくれるだろう、という根拠のない信頼によって小説を書く。それはほとんど、読者に丸投げすることとおなじだ。けれど、読書というのは、読者が楽しもうと思わなければ楽しめるものではない。いかに楽しもうと思う気にさせるか、それが小説がまずやらなくてはならないことだろう。
 そうやってうまく小説世界に没入させていき、そして「顕れ」を感じ取ってもらう。きっと最後に「顕れ」るのがよいだろう。読者に「顕れ」を感じとってもらい、終わる。読者は自分の世界に戻り、驚きを反芻する。「あなた」は考える。いったいいまのはなんだったんだ? いったいなにが「顕れ」たってんだ?
 そして「あなた」は感じる。これが、これこそが小説なんだ。作者がなにを言ったかなんて関係ない。ここには本物があって、どこに行こうとも、「ここ」には本物がある。「ここ」はまったく動かず、つねに自分の真ん中にある。たまに揺れ動くかもしれない。大きくなるかもしれないし、なってほしくはないけど、小さくなるかもしれない。けれど、本物は必ず自分のなかに眠っていて、それは自分ひとりでは気づきようのないものだ。たとえば、ひとり居酒屋で呑んでいたとき、隣に坐ったおっちゃんの他愛のない話を聞く。ずっと適当にあしらっている。けれど、あるひとことによって、はっとさせられる。そして涙する。そうやって気づく。
 ディスプレイに映る文字をみつめている。それはただの光にすぎなくて、その本質は数字である。けれど表面はそうではなく、意味をもった日本語の集まりだ。しかし、意味不明なことが書かれている。支離滅裂な文章ではないが、ポエムっぽい。2015年3月5日の夕方、寒い自室で書かれたものらしい。それはキーボードによって打ち込まれ、電波によって送信されて、ブログの記事になっている。その文章はある程度のひとに読まれる。全世界に公開されたとしても、全世界のすべてのひとが読むわけではない。日本語がわかり、インターネットに接続し、たまたまそのブログに辿りついたひと。それだけのひとしか読まない。けれどそれがなんだっていうのだろう。ディスプレイから光が拡散し、部屋に広がる。それを私の瞳孔がとらえ、脳は思考する。私はわからないだろう。けれど、わかることだってたくさんあるのだ。



Carver's dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選 (中公文庫)