転々し、酩酊

すなわち、世界ではまだ何一つ最終的なことは起こっておらず、世界の、あるいは世界についての最終的な言葉はいまだ語られておらず、世界は開かれていて自由であり、いっさいは未来に控えており、かつまた永遠に未来に控え続けるであろう、と。(『ドストエフスキーの詩学』P.333)

詩学001 神は細部に宿る――小説のディテールについて

 辿町うたげ(id:tadorimachi)です。
 ひまになったので小説の創作話でもだらだらと書き続けていこうかなあ、という感じで書きはじめます。記事のタイトルが「詩学001」と数字が三桁もあるのは、それくらい長く書けたらいいなあという祈りをこめてです。ちなみにお仕事募集中です。


 神は細部に宿る、という言葉はミース・ファン・デル・ローエがよく使っていた言葉らしい。minecraftで彼の建築を再現するほどには彼が好きだけど、そんなことを言っていたとは知らなかった。そもそも「神」ではなく、「魂」は細部に宿る、だと思っていたので、僕の知識はがばがばだ。
 とはいえ、やはり長いあいだ(といっても一〇年ほど)小説を書いてきて、神は細部に宿るというのは建築だけでなく、文芸でもそうだと感じるようになった。

 小説においてディテールというのは、叮嚀な描写がそうだと言うひとが多いだろう。けれど叮嚀であればあるほどよいわけじゃない。どれだけ読者が解釈できるか。そういう文章こそ、細部がしっかりしている、と僕は感じる。
 とにかく例をあげないとわからないだろうから、ある筋の話を三パターン書いたものを例としてあげる。


(1)
 式の朝、家にいた熊がおもむろに「タオルは持ったか」と言ったので、私はとてつもなく驚いた。驚きを隠すために冷静を装って「今日はタオルいらないですよ」と返答すると、熊はふんふんと獣臭く頷きながら、とうぜんのように朝ごはんのうどんを左手に持った箸でずるずると食べはじめた。その瞬間、父を思いだし、私は一九九九年の私になって、ぎこちなく箸をばってんにしながら一本ずつうどんを食べていた。

(2)
 朝、家にいた熊が急に「タオルは持ったか」と私に言ってきたので、とても驚いた。しかし冷静に「今日はタオルいらないですよ」と返答すると、熊は頷いてから、朝ごはんのうどんを食べはじめた。その瞬間、私は朝食にうどんを食べている父を思いだした。そういえば昔の私はうどんを食べるのが下手だったなあ。

(3)
 始業式の朝、二階の自室から階段を降りてリビングに入ると、熊がいた。熊のまえにはうどんが置かれていて、いままさに食べようとしていたらしいが、熊は私をみつけると「タオルは持ったか」と言った。私はまさか熊が喋るとは思ってはいなかったのでとても動揺したが、しかしこんなへんな状況でパニックになってしまうともしかして熊に食べられてしまうかもしれず、そしてなにかのドッキリの可能性もあった。だから私はつとめて冷静を装って「今日はタオルいらないですよ」と、自分でもなんだその返答と思いつつ熊に言うと、熊はふんふんと獣臭い息を吐きながら頷き、置かれていた箸を器用に左手に持って(左利きらしい!)うどんをずるずると食べはじめた。私はその熊の姿を見た瞬間、父を思いだした。一九九九年のこと、私が五歳のときのことだ。父はこの熊とおなじようにうどんを食べていた。そして私はうどんを食べる父のまえで、不器用に子供用の箸を使いながらうどんを一本ずつちまちまと食べていた。まったく忘れていたことだった。


 あきらかにおもしろくないやつが(2)だろう。これはさすがに情報がすくなすぎて、読者はどこをどう楽しんだらよいのかわからない。
 そして、(1)と(3)のどちらのほうがおもしろく感じるのかは読者によるのかもしれない。けれど僕は圧倒的に(1)のほうがおもしろいと思う。(1)のほうが読者はたくさんつっこめるだろう。まずいきなり「式の朝」と書いてあるが、なんの式だよ! いやまてよ、でも式とだけ言うと結婚式のことかな、いやまて、タオルって言うぐらいだからやっぱり学校かな。というふうに解釈できる。(1)はそのような文章ばかりを書いたつもりだ。
(3)のほうは解釈できるような余地が残されていない。(3)で読者が考えられることといえば、いったいこの熊はなんなのだろう、というぐらいだと思う。(左利きらしい!)とかひどすぎないか? そこは読者につっこまさせたらいいのに、なんで書いちゃうんだろう。と僕は思う。もちろん、それがよいという読者もいるだろう。
(1)は読者に努力を強いる。(3)は読むだけでいい。むろん僕は(1)のような文章をおすすめする。けれど、小説のすべてをそのように書けと言っているのではない。むしろすべてがこんなのだとかなり変な小説だろう(ブローティガンはこんな感じでおもしろいんだけどね)。
 そうではなく、(1)は強調して書いているからこんな感じになっているだけで、(1)と(3)をうまく混ぜ合わせたような小説を書けるのが理想だと言いたい。これは緩急の話だ。(3)が「緩」の文章で、(1)が「急」の文章。ここは読者につっこませよう。ここは読者に解釈させよう。そのような部分を(1)のように書く。そうするだけで、ぐっと小説に奥行きがうまれる。
 どうやってこのような文章を身につけたらよいのかというと、それは精読することだと思う。というより、このような文章を楽しむためには精読が必要だし、ありとあらゆる小説は精読することによって、一〇倍くらい楽しめる部分が増える。一〇倍は言いすぎた。二倍くらいかもしれない。けれど決して精読しないときよりおもしろくなくなることはないし、そして僕が書いたことについて気をつけながら読むと、おもしろくなかった小説もおもしろく読めると思う。とくに純文学なんかは、こういう読みかたをするとおもしろく読めると思う。つまり、つっこみながら読む、ということ。

 読者は、読書に楽しませてもらうんじゃない。あなたが読書を楽しむんだ。
 書き手は、おもしろい話を書くんじゃない。おもしろく話を書くんだ。


 本題おわり。以下はおまけ。

 解釈というのは、読者に情報を提示し、そしてそれをいかにうまく説明しないか、によってうまれるものだと思う。情報だけを提示してそのまま放りっぱなしにしていると、伏線を回収してないじゃないかと言われたりもするだろうから、断定はできないが、推測はできる、といった具合に情報は提示するのがいいんじゃないだろうか。
 提示した情報をすべて説明しきるのがエンターテインメントで、そうではないのが純文学という分けかたが(やりたくはないが)できそうだ。そういう意味では、月姫Fateが文学的にみえるのは、情報をうまく説明しないからなのかもしれない。


 次回へ

 今回はうまく説明しないことについて書いた。つまり、うまく語らないことについて語った。だからつぎは、語り得ないことをどう語るか、についての詩学をしよう。


ミース・ファン・デル・ローエ