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転々し、酩酊

すなわち、世界ではまだ何一つ最終的なことは起こっておらず、世界の、あるいは世界についての最終的な言葉はいまだ語られておらず、世界は開かれていて自由であり、いっさいは未来に控えており、かつまた永遠に未来に控え続けるであろう、と。(『ドストエフスキーの詩学』P.333)

カゲプロをほとんど知らないひと(へ)の『カゲロウプロジェクト』批評

 目次

前書き

 まずは大塚英志「企業に管理される快適なポストモダンのエッセイ」(以下ポストモダンエッセイと表記)をお読みいただきたいです。この文章は、ポストモダンエッセイを読んだという前提で書かれております。
 タイトルの括弧は、
 カゲプロをほとんど知らないひとの『カゲロウプロジェクト』批評
 カゲプロをほとんど知らないひとへの『カゲロウプロジェクト』批評
 という二重の意味です(カゲプロをほとんど知らないひとというのは私のこと)。

 私のカゲプロ批評で大事になってくる点は、春樹的なメディアミックス(一次商品がある)か、歴彦的なメディアミックス(世界観だけがある)かという部分です。

 また、カゲプロ批評とは銘打っておりますが、『カゲロウプロジェクト』だけではなく、ニコニコ動画という二次創作生成システム批評でもあります。

『カゲロウプロジェクト』は一次商品なのか

『カゲロウプロジェクト』というのは、2011年にニコニコ動画で発表された、じん(自然の敵P)作曲の「人造エネミー」という作品からはじまった一連のメディアミックスのことである。

『カゲロウプロジェクト』の楽曲はすべて初音ミクやIAなどのボーカロイドを使っている。いわゆるボカロ音楽というやつだ。

 初音ミクを使った楽曲は全部初音ミクの二次創作だと思われるかもしれないが、それは間違いだ。初音ミクを使う、というのはあくまで楽器として使うという意味であり、初音ミクの二次創作となるのは、初音ミクというキャラクターを扱ったものだけだ。だが、じん(自然の敵P)の「人造エネミー」の歌詞には初音ミクは登場しない。

 たとえば、J-Popを聴いていて、歌詞に「僕」とか「君」とかが出てきたとする。その「僕」はその曲の歌手のことを指しているわけではない。抽象化された、もしくは歌詞内物語の「僕」や「君」である(もちろん特定の個人を指すときもあって、それが歌手自身の場合もあるが、その場合はすぐにわかるようになっている)。

 歌詞内物語が初音ミクを指しているわけではないので、初音ミクの二次創作ではない。作家オリジナルの物語なのだ。なので、ボカロ音楽から派生したボカロ小説と呼ばれているものは、初音ミクなどのボカロキャラの二次創作だと思われているがそうではなく、一個の世界観を持った作品の場合はオリジナル(一次商品)だと言える。『カゲロウプロジェクト』は一次商品だ。

 じん(自然の敵P)が作る『カゲロウプロジェクト』の楽曲は、すべて物語がある歌詞である。物語があるのだから、それが小説となってもおかしくはないだろう。


なぜ『カゲロウプロジェクト』がヒットしたのか

『カゲロウプロジェクト』が出てくるまでにも、さまざまな物語的なボカロ音楽はあった。だが、『カゲロウプロジェクト』よりヒットしたものはない。

『カゲロウプロジェクト』は二作目までは静止画が動画に使われていた。もちろん、その時点で人気はあったのだが、爆発的な人気というわけではなく、楽曲が評価されていただけだった。だが、三作目からアニメーションPVがつくことになる。このアニメーションPVはじん(自然の敵P)が作ったものではなく、しづというイラストレーターが作った。ボカロ音楽では、このようなアニメーションPVがつくことが多く、ニコニコ動画内で人気のイラストレーターがPVを担当するとヒットする、というような現象まである。
(三作目「カゲロウデイズ」)

 このアニメーションPVがついたことは大きなことで、歌詞だけの物語だったのが、アニメーションPVが物語を補完するようになったのだ。ミュージカルのようなものだと思ってもらえるといい(映画ほど映像が物語らない)。

 じん(自然の敵P)は三ヶ月から四ヶ月に一曲ぐらいのペースでコンスタントに楽曲を発表し続ける。これだけ間があくと飽きられるんじゃないかと思うかもしれないが、じん(自然の敵P)はうまかった。

 うまい部分はふたつある。

1、『カゲロウプロジェクト』の楽曲は、一曲の物語が一曲で完結しているわけではない。ほかの『カゲロウプロジェクト』の楽曲と世界観がおなじで、ストーリーがつながっているのだ。ということは、新しい曲が発表されたとき、前回の曲を聴いたことがあるひとはまえの物語とどう関係があるのか気になって視聴する。

2、曲を聴いてもぼんやりとしか物語がわからず、「解釈」が必要となってくる物語だということ。これはニコニコ動画のコメントシステムとうまく合致していて、曲を聴きながら気になったところ、洞察したところをコメントする。それが積み重なって、物語が次々と「解釈」されていくのだ。

 ニコニコ動画のユーザーはネットコミュニケーションに抵抗がない。だから、ニコニコ動画のコメントだけでは飽き足らないひとは、ほかのサービス(ブログや掲示板など)で『カゲロウプロジェクト』の解釈をばんばん投稿してゆく。『カゲロウプロジェクト』はニコニコ動画内だけではなく、外に広がってゆくのだ。

 外に広がると『カゲロウプロジェクト』のファンは増え、「解釈」は多くなり、大きなコンテンツになっていく。

 これが『カゲロウプロジェクト』が飽きられないうえ、ヒットした理由である。

 あと、ニコニコ動画は歌ってみたや、踊ってみた、などの文化があり、人気のある作品はそういった動画がたくさん投稿されるのも飽きられない理由のひとつだと言っておかなくてはならない。そして、この部分がニコニコ動画の二次創作生成システムである。

『カゲロウプロジェクト』は二次創作をされるような大きなコンテンツとなったのだ。


「解釈」とは物語を作っていくこと

『カゲロウプロジェクト』はぼんやりとした物語が提示され、それを「解釈」していく、という構図がある、ということを説明した。『カゲロウプロジェクト』を物語が稚拙だと言って批判するひとがいる。それはたしかにそのとおりなのだが、ではなぜ稚拙な物語が人気なのだろうか。

 それは、稚拙な物語がすべて作者の手によって物語られているわけではないからだ。先も言ったとおり、『カゲロウプロジェクト』のぼんやりとした物語しか、じん(自然の敵P)は物語っていない。物語の全体像を把握するためには、我々の「解釈」が必要なのだ。

 ここで哲学者・批評家のロラン・バルトが言った「作者の死」という概念を参照したい。

 我々が物語を読み解くとき、作者がそのすべてを生み出したのだから、作者の意図というものがあり我々はそれを理解する、という発想をする。日本の国語教育なんかはそうだ。「ここで作者がどう考えているのかわかりますか」などというのが典型だろう。

 だがバルトはそうではなく、物語(=作品)は引用の積み重ねで成り立っており、それを読み解くのは読者だ、と言った。物語は読者が作るものだと言ったのだ。

 つまり「解釈」とは「創造」なのだ。

『カゲロウプロジェクト』を「解釈」するとは、すなわち『カゲロウプロジェクト』の物語を作っていくということだ。なので、稚拙な物語であったとしても、受け手自身が作った愛しい子供なので好きに決まっているのだ。


「解釈」とは労力のいること

『カゲロウプロジェクト』は「解釈」が必要な物語だと言った。それはつまり、エンターテインメント作品のように、ただ受動的に見たり読んだりするだけでは楽しめないということだ。

 自分の頭で考え、世間に是非を問う。これはとても労力が必要ではないか。『カゲロウプロジェクト』のファンは、かなり良質な受け手だと言える。

『カゲロウプロジェクト』はニコニコ動画にある楽曲だけで十五曲あり、アルバムのみ収録の楽曲や、小説もある。これらをすべてを鑑賞するのは大変である。そのうえ「解釈」まで必要なのだ。

『カゲロウプロジェクト』はかなり敷居の高いコンテンツだと言える。だが、その敷居の高さ、というのが一種のステータスになっており、中高生の見栄張りな性質とうまく合わさっている。


カゲプロ信者/カゲプロ厨

『カゲロウプロジェクト』を神のような存在だと思うファンは多い。Beatlesの熱狂的なファンは、もはや信仰に近い、と言うとわかりやすいだろうか。

 とにかく『カゲロウプロジェクト』はそのような受け取られかたをしているコンテンツである。

 ならば過激な行動を取るファンがでてきてもおかしくない。

カゲプロ厨「8/15はメカクシ完了って呟こう!拡散して!」 ↓ じんさん「メカクシ完了って言葉は、こっそり仲間と言うものだよ?」 ↓ カゲプロ厨「メカクシ完了って呟いたやつみんなスパブロな!これメツブシ作戦な!拡散して!」←いまここ

【マジキチ】カゲプロ厨「拡散希望 メカクシ完了!」→じん「やめて」→「メカクシ言った奴スパブロな」 - NAVER まとめ

「明日の終戦記念日はカゲプロの日とか『メカクシ完了』とか言うのはやめましょう! じんさんも言っています!」とかいうツイートを見かけたんだけど、じんさんが言ったからカゲプロツイートを自粛するってなんか違うんじゃね?

【マジキチ】カゲプロ厨「拡散希望 メカクシ完了!」→じん「やめて」→「メカクシ言った奴スパブロな」 - NAVER まとめ

 上の引用を読んでなにか違和感を感じないだろうか。『カゲロウプロジェクト』のファンならば、作者であるじん(自然の敵P)の言うことを聞くはずである。神のように崇めているのならなおさらだ。

 だがいま紹介したファンはじん(自然の敵P)の言うことを聞かない。これは一体どういうことなのだろうか。

 もちろんじん(自然の敵P)の言うことを聞くファンもいる。ならば、神(=じん(自然の敵P))の言うことを聞かないというファンは、じん(自然の敵P)を神だと思っていないということだ。

『カゲロウプロジェクト』は「解釈」が必要だというその性質から、じん(自然の敵P)が作ったオリジナルの作品よりも、受け手が解釈したもののほうがはるかに多くなる。いわば、作者よりも受け手のほうが圧倒的に強いのだ。

 オリジナルよりも、「解釈」や二次創作が強くなるとどうなるか。

『カゲロウプロジェクト』はもはやじん(自然の敵P)のものではなく、受け手である俺たちのものだ、となるのだ。

 ならばじん(自然の敵P)がなにをどう言おうと、受け手のほうが偉いのだから、じん(自然の敵P)の言うことを聞くわけがない。

 これを私は「カゲプロ厨」と世間が呼んでいるものの正体だと思う。

 反対に、きちんとじん(自然の敵P)の言うこと、神の言うことを聞くひとたちは、「カゲプロ信者」である。

「カゲプロ厨」はオリジナルよりも、「解釈」や二次創作に立脚している。

「カゲプロ信者」は「解釈」や二次創作よりも、オリジナルに立脚している。


ニコニコ動画は一次商品を生みだせるか

『カゲロウプロジェクト』はオリジナルの作品だ。その受容のされかたは、ポストモダンエッセイ的に言うと、春樹的なメディアミックスである。つまり、一次商品があるのだ。

 だが先に説明したように、『カゲロウプロジェクト』の「解釈」や二次創作の部分だけを楽しむ「カゲプロ厨」がいる。彼らは『カゲロウプロジェクト』を一次商品だと思っていない。ポストモダンエッセイ的に言うと、歴彦的なメディアミックスである。つまり、「世界観」のみがあるのだ。

 私がポストモダンエッセイを読んで問題になると思った部分が、二次創作ばかりが溢れるのはわかるが、ならば「世界観」はどのように提供されるのか、だ。

 ニコニコ動画はユーザーにコンテンツを生みだしてもらう、というシステムなので、「世界観」もユーザーに生みだしてもらわなくてはいけない。『カゲロウプロジェクト』はそれに近いが、歴彦的なものではない。むしろ『カゲロウプロジェクト』は春樹的な一次商品じゃないか、と思ったのがこの批評を書く動機だった。

 ニコニコ動画のなかから、オリジナルの作家や一次商品がでてくるのならば、大塚英志が危惧する、企業に管理されたプラットフォームでもかまわないのではないかと思われる。

 しかし、『カゲロウプロジェクト』はただ一次商品というわけではない。「世界観」としてしか見られていない側面もある。
「カゲプロ厨」が生まれるのはニコニコ動画というプラットフォームでは仕方のないことだ。コンテンツの広めかたや、広まりかたが二次創作によるものなので、おのずと一次商品の強さが損なわれてゆく。そして最終的には、「カゲプロ厨」が生まれ、一次商品だったものは、「世界観」だけ、のものに成り果ててしまう。

 ニコニコ動画は二次創作だけではなく、一次商品をも生みだすプラットフォームだと思われたが、間違いだったのだ。


終わり

『カゲロウプロジェクト』のファン(もしくはこれから生まれるだろう『カゲロウプロジェクト』以外のコンテンツのファン)はただ受け取るだけの消費者ではなく、自分の頭で考える良質な受け手だと言った。

 ならば彼らをニコニコ動画以外の良質なコンテンツに目を向けさせることができれば、KADOKAWA・DWANGOに管理されるだけでは終わらないのではないだろうか。

 むしろそうなれば、KADOKAWA・DWANGOはよい効果をもたらす。

 だが反対にそうすることができなければ、ニコニコ動画は『カゲロウプロジェクト』のような、稚拙な「世界観」を多数生みだし、良質な受け手は稚拙な物語だけで満足してしまう。

 結果、一次商品の終焉。作家の終焉がやってくる。