転々し、酩酊

すなわち、世界ではまだ何一つ最終的なことは起こっておらず、世界の、あるいは世界についての最終的な言葉はいまだ語られておらず、世界は開かれていて自由であり、いっさいは未来に控えており、かつまた永遠に未来に控え続けるであろう、と。(『ドストエフスキーの詩学』P.333)

小説が書けないとはどういうことなのだろう


なぜそれなりの文字数が書ける人でも小説だけは書けないのか? - かくいう私も青二才でね

 青二才氏の記事を読んで考えたことを書く。
 こうやって外部が脚註(つっこみ)を増やしていって記事が充実していけば幸せなことだろう。



 解像度をあげることが、はたして小説的な伝わりやすさに繋がるのだろうか。
 というのが結論になるが、まずはつっこみからいこう。
《ブログは圧縮・物語は拡張》といっているが、どうでもいいことを延々と膨らませることが物語なのだろうか。そんな物語、だれが読みたいのか。
《起こったこと、ニュース、感情…これらはもう世界にすでにあって、それらが猥雑に絡まったものに「軸」を示すのが論ずるということ。》
これはなにもブログや評論だけではなく、まったく小説もこういうことだ。小説は物語という枠で軸を既定し、そして読者に《起こったこと、ニュース、感情…》を追体験してもらう。
《僕の場合が典型的で、ブログを作る考え方に慣れすぎた結果物語の手法自体が「なんでこんなに中身がないの?」と自分が物語を書こうとするときについつい抽象的なものを省いたり、中身があるように見せたいがために要素を増やしすぎてしまう。》
 自分で正確に物語の中身について理解できていなければ、抽象的なものを省いたり、要素を増やしたりはできないだろう。つまり、結論をいいたいがため、オチをいいたいがための物語を書いているのではないか。「筋の通りすぎる物語」とはそういう意味じゃないか? むろん、星新一ショートショートのようなオチありきの小説は無数にある。しかし、それは掌篇や短篇であって、長篇ではない。
 オチまでに積み重ねられる退屈な文章は、そんなに長く読めないし、オチがだめだと読んだことを後悔する。そのような小説は、本当にオチに自信がなければ書かないほうがよい。ギャンブルに近いのだ。
谷崎潤一郎の「ハッサン・カンの妖術」なんかは本当にオチを書くために積み重ねた文章だった。退屈さが一転快楽に変わるという体験はなかなか得がたいものがある)


なぜなにか書きたいことがあるのにフィクションで書くのか/ノンフィクションで書かないのか

 だっておかしいのだ、自分が感じたことや事件をわざわざにフィクションにせずとも、そのままありのままを書いたほうが「真実」が伝わりやすいはずなのだ。じゃあなぜフィクションにするのだろうか。それはフィクションは現実よりも筋がとおっているからなのだ。
 事実は小説よりも奇なりという言葉は、事実を賛美するためによく使われる言葉だが、私はそうは思わない。フィクションは現実を基にして作っているのだから、現実よりも複雑になることは(原理的には)ない。フィクションは現実のそうとうに複雑でこまごまとした解釈に困るようなもの、そういうものをデフォルメ(もしくは翻案)して解釈しやすいようにしてある。その解釈しやすいようにというのは、読者に対してかもしれないし、作者に対してかもしれないし、登場人物に対してかもしれないし、世界に対してかもしれない。それが小説というものだ。だから小説のほうが明らかに「読みやすい」と私は思う。つまり、そういうことができていない小説、現実を本当にそのまま書こうとした小説は退屈だろう。そもそも、現実をそのまま言葉で書くことは不可能だ。だから評論は二項対立を使ったりして解釈しやすいように手を加えている。
 現実の私たちはほんとうに複雑な感情を持っている。その解像度をあげて書くことは不可能だろう。小説が本当にしていることは、感情を言葉にして形を与えてやる、つまり解像度をあげるのではなく、ピントを合わせてやるということをしているのだ。


小説的な書きかたについて

 小説的な伝わりやすさについて、これから私の人生のなかで何度も引用したい文章をここで紹介しておく、というかずいぶんまえの記事でも引用しているのでそのURLを貼ると同時にもう一度引用しておこう。リチャード・ブローティガンの「クリーヴランド建造物取壊し会社」だ。
「あまねくアルペジオ」、小説的な書きかたについて - 転々し、酩酊
(ちなみに「あまねくアルペジオ」とは私の小説である)

 たとえばブローティガンの『アメリカの鱒釣り』の一篇「クリーヴランド建造物取壊し会社」はすばらしく小説的だ。

「小川は澄んでるんですかね」
「だんな」と売り場係はいった。「うちでは汚れた川を売るなんて思われちゃ困ります。わたしらとしてはですね、川をここへ運んでくる前に、水晶のように水が澄んでることを、まず、確かめてますよ」
「もともとはどこの川なの?」とわたしはきいた。
コロラドです」とかれはいった。「それをそおっと運んできたんです。割れ物みたいにそおっとね。わたしどものところでは、川を傷めたりしたことはないですね」
みんなきくことだろうけど、どうですか、釣れますかね」とわたしはきいた。
「釣れますとも」とかれ。(中略)
「川はどこです?」とわたしはきいた。「見てみたいですね」
「裏にあります」とかれはいった。「そこの扉からまっすぐ行って、右に曲がると外に出ます。そこに積んでありますよ。すぐわかります。滝は中古鉛管売場にあります」
リチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』新潮文庫
p.202-p.203)
(太字での強調は辿町によるもの)

 太字で強調をした、川を《そおっと運んできた》、川は《そこに積んでありますよ。》という文章は物理的にありえないことを書いている。もちろんただのフィクションで幻想だといってしまえば詮なきことだが、それだけで終わらせるのはもったいない。
 この文章を読んで読者はどんな想像をしただろうか。川を運ぶというのは物理的にありえないから、はなから想像しないのだろうか。いや違う。読者はたしかに、川を運ぶ光景を想像したはずだ。それは漫画的な想像かもしれない。そして、すぐにその漫画的な想像をありえない、といって消し去ったのだろうか。いや違う。《「みんなきくことだろうけど、どうですか、釣れますかね」》という登場人物の台詞によって、登場人物が川を運ぶということになんの疑問も抱いていないことがわかる。むしろ、川を運ぶ、というのは当然のことだ、という態度だ。読者はこの登場人物の態度によって、自分が抱いた漫画的な想像が肯定されるのだ。それにより、ただのファンタジーだった漫画的な想像が、一気にリアリティを帯びて立ちあがってくる。
 これは、絵のない媒体、小説だからこそできることだと私は思う。
 小説はただの物語(=ストーリー)だと思っているひとが多いかもしれない。けれど、小説は物語だけにとどまらず、読者の想像をも巻き込む、とても興味深いものだ。

 小説でしかできないことを実践している作品はほかにもたくさんあって、なかでも一番好きなのが、多和田葉子の『飛魂』なのだが、この作品は私が語るよりももっとうまく語っているひとが世のなかにたくさんおられるので、興味のあるかたはそちらを読んでいただいたほうがおもしろいと思う。

 解像度をあげることがきっと伝わりやすさをあげることに繋がるわけではない。むしろ言葉ではすべてを語ることができない。語り得ない部分が必ず出てくる。小説とはすべてを書くのではなく、ある部分にピントを合わせ、それをテクストを介して読者に体験してもらう。そして、その先に語り得ないものが見えてくることがあれば、それが成功なのだ。


アメリカの鱒釣り (新潮文庫)

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)

飛魂 (講談社文芸文庫)

飛魂 (講談社文芸文庫)