イメージレスポンス型(造語)の小説創作話

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photo by gregwake

(4523文字)
 自分の創作話の打ち明けって、よく「意味ない」とか、「オナニーだ」とか言われるが、本当にそのとおりだ。意味があるのはできあがったものであって、その過程で自分がどんな哲学を持って創作しているのかなんてそんなことは自分にとってはとても大きな意味があるかもしれないけど、他人にとっては意味がない。
 ただ、自分に近い人間ならば、僕に共感してくれれば、こういう創作話とか、もっといえば「人生論」とかがひとの心を打つ場合もある。
 そう、人生論の場合は頭のよいひとなら普遍的に書ける。だから、人生論の名著はある。けれど、創作話は普遍的に書けるのだろうか。普遍的に書けた創作話は、ただの精神論じゃないか? そういう意味で、創作話は幅広くひとの心を打つ文章になり得ない。
 けれど、僕が創作話を語ろうとしているのは、残響さん(id:modern-clothes)が創作において考えていることに共感したからだ。もしかして僕の創作話が残響さんのためになるかもしれない。そう考えたからだ。

 ちなみに脳のタイプ診断みたいなのがあって、それによって小説の書きかたが違うんじゃないか、という話があった。僕は「さう脳」であるが、これがどれだけ科学的に正しいかわからない。けれど、正誤を判断するためにも統計的な情報が必要だろうから、一応書いておく。
 前置きに時間をかけすぎてもいけないで、ここからが本題。

 そもそも、小説に正解はない。というより、おしゃべりに正解はない、と言ったほうが正確だろうか。
 しかし、おしゃべりよりも小説のほうが圧倒的に難しい場合がある。それは、読者(話し相手)の反応がわからないので、反応に合わせて話を盛ったり省略したりできないからだ。
 もちろんしゃべりもしゃべりで難しく、反応に合わせてアドリブで話を作るというのはとてつもないセンスと技量と経験が必要だろう。だが、小説をおしゃべりと同じぐらいスムーズに読んでもらうためには、読者の反応を想像できなくてはならない。
 そんなの想像できるわけがない。
 じゃあどうするのか。いや、やっぱり想像するのだ。間違っていたとしても想像するのだ。
 小説はおしゃべりと違って、読む側に「読むぞ」という準備ができている。そのため、多少拙かったとしても読んでくれる(もちろん読者の読んでくれるという態度に胡座をかいてはいけない)。
 だからこそ、読者の反応がすべて合っていなくても、多少合っているだけでも大丈夫なのだ。
 で、どうやって想像するのかというと、これは本当によくいわれることだが、推敲すること。これに尽きる。
 推敲といっても、創作をしていたときの熱意や心のままで推敲すると、たぶんどこも手をいれる場所がない。そのためには客観的にならなくてはならない。素人の物書きは編集者などいないので、自分が編集者にならなくてはいけない。そして、どこにどう手をいれたらよいのか判断するためには、本を読まなくてはならない。本当に、ただそれだけの話だ。
 で、僕がどれだけ推敲をするのかというと、実は一回か二回だ。それも大幅に手をいれたりしない。これは僕がどうやって小説を書いていくか、という部分に関わってくるので、次はそこを説明する。

 僕はプロットを作らない。ネットで読める創作論なんかだと、プロットを作れって、十記事ほど読んだら九ぐらいは書いてあると思うが、プロットをガチガチに作ってから小説を書くひとって少ないと思う。
 そこで僕は、
完全構築型
完全アドリブ型
部分構築型
イメージレスポンス型

 という、小説の書きかたの分類を四つ思いついた。ひとつづつ説明してゆく。
 まず完全構築型だが、文字からわかるとおりまずプロットをガチガチに作ってから小説を書いていくタイプだ。これは、一度プロットを完成させてしまえば、あとは書けばいいだけなので、そういう意味では楽だ。
 だが、僕はこのタイプにはちょっと否定的だ。先に書いたとおり、小説は読者の反応を想像して書く。小説は有機的なもの、生き物だ、と僕は考える。そのため、書いている途中でちょっとおかしいな、と思ってもプロットどおりに書かなくては破綻してしまうので、強引に書いてしまうこともあるだろう。その部分が違和感となり、失敗とはいわなくても、もしかして最初に考えていたものよりいいものになっていたかもしれないものを切り捨てることになる。
 僕は、書くことは考えることだと思っているから、完全構築型は性に合わない。
 二番目は完全アドリブ型だ。これも文字どおりだが、プロットもなにもかも一切考えず、とりあえず書きはじめてしまうやりかただ。そんなひといるのか!? と思われるかもしれないが、実は存在する。
 僕が確信を持って挙げられる作家は、いしいしんじである。彼は「その場小説」というパフォーマンスをやっている。
「その場小説」というのは、会場(喫茶店や映画館や植物園などさまざま)に行き、その場で小説を書き、読む、というものだ。その会場からインスピレーションを得て即興で書かれる小説で、これは完全にアドリブだ。でも、これは普通のひとには真似できないと思う。いしいしんじは天才だ。彼の想像力は本当に豊かで、たぶん小説以外のものでも成功していたと思う。たまたま彼が小説が好きで、小説を書いた。そういうことだ。
 それでも完全アドリブ型でやりたいというひとは、とにかく書きまくることだ。それも、自宅に籠もって書くだけじゃなく、いろいろな場所にでかけて書く。というのも、小説のアドリブはやっぱり音楽でのアドリブと似ていて、どれだけ引き出し(リック、手癖など)を増やせるかということに尽きる。あとはセンスだろうが、センスはそのうちついてくる。どこかにでかけて書けというのも、引き出しを増やすためである。そうしてたくさん書いているうちに傑作がいくつか生まれる。数打ちゃあたる理論だ。
 三番目は部分構築型だ。これは完全構築型の欠点である融通のきかなさを克服したもので、僕はおすすめしたいし、たぶん多くのひとがこの書きかたで書いているんじゃないかと思う。
 プロットを時系列に沿って最初から最後までこうやって書く、と決めるのではなく、エピソード単位などで区切ってプロットをまばらに書いていく。そしてそれをつなぎ合わせていくのだ。エピソードがあらかじめ決まっているから、つなぎ合わせの部分は必然的に導かれるし、エピソードのつなぎかたでまったく違ったストーリーにもできる。エピソードを捨ててもいいし、書いている途中で新しく思いついてもいい。
 最後はイメージレスポンス型だ。これは言葉から意味を想像しづらいと思う。これは部分構築型と完全アドリブ型を合わせたような書きかただ。そして、この書きかたは僕の書きかただ。
 イメージレスポンスというのは、日本語にすると、像反応となってちょっとださいから横文字で書いている。あと、pixivにイメージレスポンス機能というものがあって、そこから名前を借用している。
 まず、とても書きたいイメージが生まれる。それを暫定的なクライマックスにして小説を書きはじめていく。わかりづらいと思うので、自作の「あまねくアルペジオ」を使って説明する。
 僕が思い浮かべたイメージは、空を飛んでたくさんのひとに音楽を届ける、というものだった。じゃあ次に考えるのは、誰がその音楽を届けるのか、というもので、そんな青臭いことを考えるのはやはり中高生だろう、として、軽音部の部員が登場人物になった。ということは必然的に舞台は学校、部室ということになる。青臭いものなので、語り手は一人称のほうがいいだろうが、音楽の力を無条件に信じている人物を語り手にして書くと、電波になりかねないし、読者がひいてしまうかもしれない。ということで、語り手以外に空を飛ぼうと言い出させたい。というとこまで考えると、小説が書き出せる。書き出してしまうと面倒な手続きだなあと思うが、実際これを考えるのに数分もかからない。
 イメージレスポンスというのは、ひとつイメージを確定してしまえば、イメージからの反応で小説ができあがっていくというものだ。そしてそのイメージは明確なものでなくてもよい。漠然としたものでもよくて、その場合書いていくうちに遡及的にイメージが確定する。というより、明確にイメージしてしまうと、書いていくうちに違うイメージが浮かんだとき、最初のイメージに思い入れが強すぎて変更しにくくなってしまう。それでも最初のイメージを捨てられるというひとは、明確なイメージのほうが反応が強く返ってくるのでそっちのほうがいいと思う。
 そして僕が推敲をあんまりしないというのも、イメージからの反応で小説ができあがっているので、そのイメージに辿りついた文章というのは必然的なものだからだ。なので誤字脱字を確認するぐらいしかできない。
 あと、イメージはひとつでなくてもいい。ふたつでも三つでも、多くなればなるほど小説の長さが長くなっていくし、部分構築型に近づいていく。というよりこれをつきつめると、プロットの生産システムになるんじゃないか、と思わなくもない。

 イメージからの反応で小説ができあがっていく、といっても本当にそうか? と思うひとが多そうだし、自分でも書いていて相当に怪しい物書きだなこいつ、と思う。でも、僕は本当にこの方法で小説を書いているし、この方法が合うひとは少なからずいると思う。どういうひとに向いているかはちょっとわからない。だが、イメージから明晰に論理的に逆算する、ということが行えるひとならば誰だって書ける。

 僕は少しまえまでは完全アドリブ型で書いていた。けれどやっぱりアドリブで書くと終わらない。だからどうやって終わらせるかを考えたとき、まず終わりから考えればいいんだ、ということに気がついた。あと、アドリブで書くと自分(=作者)が出すぎる。べつに僕はおもしろい人間でもないから、私小説を書いたってしょうがないし、私小説を書くぐらいならエッセイを書いたほうがいいだろう、と思う人間だから、そこから脱却したかった。

 ちなみにこの文章もイメージレスポンスで書いていて、一番書きたかったことはもちろんイメージレスポンスの説明だから、それを説明するために前提を積みあげていった形だ。