転々し、酩酊

すなわち、世界ではまだ何一つ最終的なことは起こっておらず、世界の、あるいは世界についての最終的な言葉はいまだ語られておらず、世界は開かれていて自由であり、いっさいは未来に控えており、かつまた永遠に未来に控え続けるであろう、と。(『ドストエフスキーの詩学』P.333)

『僕は友達が少ない』の見取り図のなにが悪いのか

 僕は『僕は友達が少ない』を三巻ぐらいまでしか読んでなかったと思う。

 うろ覚えで申しわけないが、はがないは小鷹の一人称だけど、書簡体や日記体ではなかったと思う。もしかして日記体などならば、教えてください。

 というわけで、まず『僕は友達が少ない』は小鷹のスタンダードな一人称。つまり、語り手(=小鷹)がある地点(それは特定された未来かもしれないし、不特定の未来かもしれないし、語っているまさにそのときなのかもしれない)にいるということを前提にする。

 その場合、『僕は友達が少ない10』の見取り図はおかしい。

《位置関係はこんな感じだ←》と矢印つきで小鷹が地の文で語っており、そして見取り図が貼りつけてある。ということは、小鷹はこの見取り図の存在を認識しており、なおかつ文中に挿入したということだ。

 つまり、小鷹はこの文章を書いた、ということでなければおかしい。だがしかし、小鷹の語りは日記体などではなく、心情をそのまま書くというふつうの一人称だ。ならば、この見取り図を挿入したのはだれなのか(物理的には平坂読か編集だが、立前としてはだれか)。

 ミステリではこういう見取り図はよくある、という意見があった。

 しかし、ミステリではちゃんと見取り図を挿入するための手順がある。

 見取り図を挿入できるのは、三人称で神の語り手(語り手が作者の場合も多い)や、日記体の場合などだ。ミステリは基本的には三人称だと思う(信頼できない語り手を登場させない)ので、図が挿入されても違和感がない。

 なので、ミステリでは見取り図がオッケーなのだから、はがないでもオッケーという理屈は成り立たない。

僕は友達が少ない』は所詮フィクションで、見取り図を小鷹が認識しているというメタなことをしても、読者はべつにフィクションということがわかっているのだから、どうでもいいじゃん、というスタンスならばそれでいい(いいか?)。

 とはいえ、小説の作法を知っているのならば、こんなことはしないはずであり、たとえ平坂読が知らなかったとしても、編集が訂正するはずなのだ。

 あと、終わりも「僕はとても悔」で終わっているらしく、もしかしてこれが演出じゃないとすれば、全体的に時間が足りなかったんだろうな、と思う。


 追記

 もしかして小鷹が書いたという設定なのだとしたら、見取り図の「小鷹」の部分は「俺」にするほうが親切だと思う。


 追々記

 ふつうの一人称でも図などを載せる方法はある。

 小説に挿入された図と同じ図が作中に登場する場合。


 俺は彼女が差し出した紙を受け取った。
 (図)
 どうやら地図のようだった。
「俺はこの場所に行けばいいんだな?」


 や


 俺はやっと見取り図を書き終えた。
 (図)
「みんな、このとおりに坐ってくれ」


 などならば、違和感がないと思う。

 もしかしてはがないがこのように書かれているかもしれない。あの画像だけでは判断ができないので、読んだかた教えていただけるとありがたいです。


もうちょっとわかりやすくまとめた記事
なぜ皆は『僕は友達が少ない』の図に違和感を感じないのか/なぜ僕は違和感を感じるのか - 転々し、酩酊