転々し、酩酊

すなわち、世界ではまだ何一つ最終的なことは起こっておらず、世界の、あるいは世界についての最終的な言葉はいまだ語られておらず、世界は開かれていて自由であり、いっさいは未来に控えており、かつまた永遠に未来に控え続けるであろう、と。(『ドストエフスキーの詩学』P.333)

フィクションによる風評被害――『美味しんぼ』鼻血問題

美味しんぼ』が福島の原発のせいで鼻血がでる、というような(そんなふうに受け取られかねない)描写をしたことがとてつもなく問題になっている。
 しかし、このような風刺というのは、ひとびとにこのような問題がある、考えてはいかがか、と提示するためにあって、そのまままるっと受け取ってはいけない。
 原伸晃環境相がこの問題に口を出していて、「風評被害を呼ぶことがあれば、あってはならないこと」と言っているらしいが、頑なに否定するのは、かえって疑わしさを増すことになる。
 ここで原伸晃環境相が言うべきだったのは「あのような風刺をまともに受け取るひとはいないだろうが、ここに否定できるデータがある。それを見てほしい」というようなことだろう。
 風刺をそのまま弾圧するのではなく、うまく風刺に乗っかって自分の意見を述べるほうが絶対にスマートだろう。まあ、色々と大人の事情があってそういうふうには言えないのかもしれないが。
(原伸晃環境相が言及したことによって風刺が成立した、という見方もできて、こうやって問題になるのはよかったことだろう。だが、言及の仕方はもっとあった)。

 フィクションは言わずともわかっているかもしれないが、虚構という意味だ。嘘なのだ。だが、嘘だとわかっているはずなのに、先の事例のように本当のことのように受け取られてしまうことが多くある。
 私はフィクションは嘘なのだから、なにをやろうと自由だ、という立場ではない。むしろ、本当のことのように受け取られる場合があるので、極めて注意して書かなくてはいけないし、もしリスキーなことを書くのであれば、責任を負うという覚悟が必要だ、という立場だ。というより、このことをわかっていないひとはフィクションをやらないほうがいい。
 その点、雁屋哲氏は「書いた内容についての責任はすべて私にあります」と明言しているのできちんとしている。

思えばフィクションとは、あいまいな、捉えどころのない代物である。先にフィクションの二面性について語ったが、それは荒っぽくいえば「嘘であって嘘でない」ということである。これにたいするわれわれの態度も「信じつつ信じない」という両義的なものである。感動はするが本気にはしない、といった方がいいかもしれない。シェフェールは、「没入」と「制御」の両方が一度に要求されるこの(じつは高度な)能力を「フィクション能力 compétence fictionnelle」と呼び(後略)
(大浦康介編『フィクション論への誘い』世界思想社 p.34)

 作家はフィクションを「嘘であって嘘でない」と認識して書いているし、読者も「信じつつ信じない」という態度で読む。
 だが、今回の問題では、環境相環境省双葉町の反応は、「信じつつ信じない」というスタンスではなく、まるっきり「信じ」ている。いや、「信じ」ているフリをしているのかもしれない。それは、民衆のなかに「信じ」てしまうひとがいるかもしれないから、先に彼らのために見解を表明し、彼らが嘘を「信じ」てしまうのを防ぐためなのだろう。
 だがそれは、間違ったやりかたじゃないだろうか。

 フィクションのほうは「嘘であって嘘でない」ときちんと書かれている。ならば(環境相環境省双葉町がいると思っている)間違って「信じ」てしまうひとたちには、フィクションなのだから「信じつつ信じない」という読みかたが正しい、と教えなくてはいけない。
 そのために環境相環境省双葉町ができたことは、自分たちが知り得る限りのすべてのデータをそっと差しだすことだった。


結び

 ちがう、本当はこういうことが書きたかったんじゃなかった。村上春樹中頓別町でたばこポイ捨ての件をからめて、フィクションに現実の固有名詞をだすとはどういうことか、ということを谷崎潤一郎の「ハッサン・カンの妖術」から考える、ということをしたかったのだった。
「ハッサン・カンの妖術」は現実をそのまま書き写したかのような、エッセイふうの小説なのだが、最後で急に幻想的になりそのまま終わる。という不思議な小説で、とても現実の使いかたがうまい。もちろん幻想的なものはふだんでは嘘だと思うのだが、この小説の場合は「信じ」てしまう。しかもその幻想というのが、意識が須弥山まで行ってしまうような突拍子もないようなものなのに、「信じ」てしまう。
「ハッサン・カンの妖術」のようなうまい現実の使いかたをすれば、突拍子もないことでさえも「信じ」させることができる。
 今回の『美味しんぼ』の場合は、元双葉町町長が実名ででてきて、語らせる、という構図なので、たしかに「信じ」させるものとしてはうまい、と言えるのかもしれない。
美味しんぼ』の描きかたがうますぎたのだ。もうちょっと下手に描いたり(たとえば元町長を仮名にしたり、目線をいれたり)すると違ったのかもしれない。
 とはいえ、作中でも医者に、因果関係はないと言わせているし、普通に読めばただの問題定義か、風刺にしか思えないと思うんですけどねえ。



付録

小学館への抗議文

 原発事故以来、政府などは信頼を失った。このような抗議文だけでは不足であると考える。