転々し、酩酊

すなわち、世界ではまだ何一つ最終的なことは起こっておらず、世界の、あるいは世界についての最終的な言葉はいまだ語られておらず、世界は開かれていて自由であり、いっさいは未来に控えており、かつまた永遠に未来に控え続けるであろう、と。(『ドストエフスキーの詩学』P.333)

「あまねくアルペジオ」、小説的な書きかたについて

「あまねくアルペジオ」について

 翼のある人間の世界では、やはり飛べるということを利用したパフォーマンスなどがあると思う。もちろんそれをそのまま書いてもいいのだけれど、学生が思い立ってやったものが飛ぶこと、ということにすることで、この世界のなかでの飛ぶことというものがどんなものなのか描けたらよいと思った。
 大きな頑丈な板を十数人で持ちあげ、そのうえでライブするなんて無茶だ、と思うかもしれない。けれど、ここが小説のいいところで、あまり描写せず(ただの叙述?)、物理的にありえないことをいい切り、そして登場人物がそのことに違和感を感じておらず、むしろ当然のことのように振る舞うことによって読者に想像させ勝手に納得してもらう、という技が使える。これは本当に小説のいいところ。

小説的な書きかたについて

 たとえばブローティガンの『アメリカの鱒釣り』の一篇「クリーヴランド建造物取壊し会社」はすばらしく小説的だ。

「小川は澄んでるんですかね」
「だんな」と売り場係はいった。「うちでは汚れた川を売るなんて思われちゃ困ります。わたしらとしてはですね、川をここへ運んでくる前に、水晶のように水が澄んでることを、まず、確かめてますよ」
「もともとはどこの川なの?」とわたしはきいた。
コロラドです」とかれはいった。「それをそおっと運んできたんです。割れ物みたいにそおっとね。わたしどものところでは、川を傷めたりしたことはないですね」
みんなきくことだろうけど、どうですか、釣れますかね」とわたしはきいた。
「釣れますとも」とかれ。(中略)
「川はどこです?」とわたしはきいた。「見てみたいですね」
「裏にあります」とかれはいった。「そこの扉からまっすぐ行って、右に曲がると外に出ます。そこに積んでありますよ。すぐわかります。滝は中古鉛管売場にあります」
リチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』新潮文庫
p.202-p.203)
(太字での強調は辿町によるもの)

 太字で強調をした、川を《そおっと運んできた》、川は《そこに積んでありますよ。》という文章は物理的にありえないことを書いている。もちろんただのフィクションで幻想だといってしまえば詮なきことだが、それだけで終わらせるのはもったいない。
 この文章を読んで読者はどんな想像をしただろうか。川を運ぶというのは物理的にありえないから、はなから想像しないのだろうか。いや違う。読者はたしかに、川を運ぶ光景を想像したはずだ。それは漫画的な想像かもしれない。そして、すぐにその漫画的な想像をありえない、といって消し去ったのだろうか。いや違う。《「みんなきくことだろうけど、どうですか、釣れますかね」》という登場人物の台詞によって、登場人物が川を運ぶということになんの疑問も抱いていないことがわかる。むしろ、川を運ぶ、というのは当然のことだ、という態度だ。読者はこの登場人物の態度によって、自分が抱いた漫画的な想像が肯定されるのだ。それにより、ただのファンタジーだった漫画的な想像が、一気にリアリティを帯びて立ちあがってくる。
 これは、絵のない媒体、小説だからこそできることだと私は思う。
 小説はただの物語(=ストーリー)だと思っているひとが多いかもしれない。けれど、小説は物語だけにとどまらず、読者の想像をも巻き込む、とても興味深いものだ。

 小説でしかできないことを実践している作品はほかにもたくさんあって、なかでも一番好きなのが、多和田葉子の『飛魂』なのだが、この作品は私が語るよりももっとうまく語っているひとが世のなかにたくさんおられるので、興味のあるかたはそちらを読んでいただいたほうがおもしろいと思う。

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)

飛魂 (講談社文芸文庫)

飛魂 (講談社文芸文庫)

あれ? Amazonの紹介を貼ると気づいたけど、あきらかに『アメリカの鱒釣り』のほうが言及しているブログが多いんですけど!