転々し、酩酊

すなわち、世界ではまだ何一つ最終的なことは起こっておらず、世界の、あるいは世界についての最終的な言葉はいまだ語られておらず、世界は開かれていて自由であり、いっさいは未来に控えており、かつまた永遠に未来に控え続けるであろう、と。(『ドストエフスキーの詩学』P.333)

あまねくアルペジオ

あまねくアルペジオ


 ぼくは蝉が暑さにわめいている声がかすかに聞こえる部室のなかで音楽をやっていた。
「完璧だね」とヴォーカルが後ろ手を組んで微笑む。汗のせいでセミロングの髪が首筋にはりついていて艶めかしい。
「ああ……水」とドラムがペットボトルから水を飲み始めた。
 ベースはチューニングをしている。
 ぼくはEmaj7をじゃらんと鳴らしてから肩からさげていたギターをスタンドに立てた。
「いまのはだれかに聞いてほしかった」ヴォーカルがいう。
「たしかに」とドラムが返事をした。
 ベースが含み笑いをして、ぼくは部室の一体を感じていた。まだ音楽は鳴り止んでいないように思えた。
「んーっ」とヴォーカルが伸びをして、ぼくは彼女の胸に視線をやった。そうしたら他の二人の視線と衝突して一瞬だけ明らかに空気がかわる。はたしてヴォーカルはこのことに気づいているのだろうか。
「たくさんのひとに聞いてほしいの」
 彼女はぼくたちの視線を告発するかのようにそういった。ぼくたち三人はうなずいた。
「文化祭なんかじゃだめなんだよね」
 ちょっとまえにヴォーカルがいっていた、文化祭ぐらいのひとじゃなくてもっとたくさんのひとに聞いてもらわなくちゃいけない、というような言葉を思い出してそういう。
「うん、もっと、もっとたくさんのひとに。だって音楽って、音楽ってすごいんだよ。明るい音楽はみんな明るい音楽だと思うし、暗い音楽はみんな暗い音楽だと思うんだよ」
「そう、音楽は人類共通の言語なんだ」ベースがそういい、ヴォーカルがなんどもうなずいた。
「文化祭はもうみんな楽しく明るくなってるの。そのなかで音楽をやって、もっと楽しく明るくするのもいいけど、わたしは気分が落ち込んでいるひと、そういったひとたちに明るくなってほしい」
「じゃあそうしよう! いいこと思いついたんだ」
 ドラムがこういうときは決まってとんでもないことばかりだ。



 ぼくは空を飛ぶ板のうえでギターを弾こうとしている。単純なはなしだ。空配達のプロ十数人が大きな頑丈な板からのびたワイヤーを握って空を飛ぶ。ぼくたちは板にのって曲を演奏する。それだけだ。なんて子供だましなアイディアなんだろう。でも、ぼくはそんな子供だましなアイディアを拒否するわけではなく、もちろん危険だってわかっていたけど、なぜだか身体が勝手に動いて準備をしていた。そして、ぼくたちは学校の屋上から飛び出した。
 ヴォーカルがマイクのスイッチを入れて調子を確かめる。ステージなどではなく、完全に空中なので音がどう響いているのかがわからない。でも、学校のグラウンドにいるひとたちが一斉にぼくたちのほうを見た。
「すごい! これでどこまででも音楽を届けられるんだね!」
 ぼくは言葉で応えるかわりにギターを鳴らした。Cの音が空に響く。すこしヴォリュームを大きくしすぎただろうか、と思っているとシンバルが鳴ってヴォリュームは合っていたことがわかった。
 空を飛ぶ板はもっと揺れると思っていたけど、そうでもなかった。船のうえのような感じだった。豪華客船じょうのライブではない。でも、それよりもずっとぼくたちのライブはすごいと思う。
 ぼくたちは眼下のゆるやかに流れていく景色を見ながら音楽をする。ふつうのステージのうえからよりももっとはっきりと人間の姿がわかる。ぼくたちはいまから彼らに音楽を届ける。
 いくよ、というヴォーカルの声が聞こえて、ぼくはピックで弦を弾いた。四人がだす音が三次元的に広がってぼくは自分が音楽のなかに取り込まれたみたいだったし、絶対にわかるはずはないんだけどなぜかほかの三人もぼくと同じことを感じていると確信していた。
 ステージが空を飛んで、学校まえの道路、商店街、住宅街、公園、オフィス街をゆっくりとすぎてゆく。郵便配達のひとがぼくたちを見あげる。犬のさんぽをするおばさんと犬が、幼稚園の子供たちの列が、自主的にはやめの夏休みにはいった不良が、楽器をかつぐひとが、音を聞いて窓をあけるひとが、公園でぼうっとしているサラリーマンが、横断歩道で立ち止まっているひとたちがぼくたちを見あげる。彼らはぼくたちを目にしたときなにかをいっている。ぼくたちは自分たちの音楽のせいで彼らがなにをいっているのかまったくわからなかったけど、なにかをいっていることだけはわかった。ぼくたちがとおりすぎるたびにひとが空を見あげてなにかを発している。彼らの音だ。彼らの音がひとつひとつぼくたちの音楽と共鳴して鳴っていって、ぼくたちの音楽と混じりあう。彼らの分散した音がひとつの和音になる。まるでアルペジオだ。
 ふと公園に近づいたとき、したにいた警官がとても昂奮してなにかを叫んでいた。あまりにもその様子が必死だったので、ぼくたちは音楽に感動したのだろうと思って地面に降りることにした。
「どうです、楽しくなれましたか!?」
 ヴォーカルが歌の昂揚のまま警官に問いかける。
「いや、あの、あのねえ。きみたち、迷惑防止条例って知ってるかな。それとも許可を得ていたのかな。ぼくはそんなはなし聞いていないんだけど」
「そうじゃなくてですね。そんなことはどうでもよくて、ようは楽しくなれたかなれなかったかという次元のはなしなんですよ」
「うーん、いやえっとね、あー、どうしよっかなー、とりあえず署まで来てもらえる?」
 警官は業務上そういわなくてはならないだけなのだ。ぼくたちの音楽で楽しくなったのはいうまでもない、わかりきったことだ。
 地面に降りてからもまだ音楽が響いている気がする。たぶんこのまま世界じゅうまで広がる。もしくは、世界じゅうのひとびとの内側から音楽が鳴りはじめる。

『幻翼の天使』No.3