転々し、酩酊

すなわち、世界ではまだ何一つ最終的なことは起こっておらず、世界の、あるいは世界についての最終的な言葉はいまだ語られておらず、世界は開かれていて自由であり、いっさいは未来に控えており、かつまた永遠に未来に控え続けるであろう、と。(『ドストエフスキーの詩学』P.333)

創作科で文章を学ぶということ

 創作科というものは日本にはまだすくないが、欧米の場合は、デビューしている小説家というのはだいたいクリエイティブ・ライティング出身だ。
 イアン・マキューアンフラナリー・オコナージョン・アーヴィングレイモンド・カーヴァーカズオ・イシグロ、ラッタウット・ラープチャルーンサップなどなど。
 彼らはやっぱりうまいのだ。それは読書家からみてうまいという意味でのうまさである。なおかつ、おもしろいものを書けるので売れているのだ。
 じゃあ高校を卒業したひとが創作科にはいってうまい文章が書けるようになるというのは必要なことだろうか。
 日本の小説家というのは、なんらかの賞を取ってデビューするというのが一般的だ。つまり野良の物書きが小説家になるのだ。文章を書く訓練を受けていたわけではなく(もちろん早稲田出身のひとはいるが)、小説を読んで小説の書きかたを学んだひとたちだ。いわゆる独学である。小説理論(というものがあるとして)を大学の創作科で学ぶと、いわゆるうまい文章が書けるようになる。そのうまさというのは、読者がつまづくことなく読めるかどうかであり、いい換えると癖のない文章だ。野良の物書きの場合は、もちろん癖のない文章を書くひとはいるにしても、創作科で学んだひとよりも癖のある文章ばかりだろう。作家でいうと、町田康だ。町田康が書く文章はだれも真似できない。創作科で学んだひとは、そういう手法もあるし、その手法で小説を一篇書いてみてもいいだろう、とは思うかもしれないが、その書きかたを突き詰めようとは思わない。そういった部分で野良の小説家と創作家出身の小説家は違う。
 町田康は日本語以外に翻訳できるか、といわれると、難しいんじゃないか、といわざるを得ない。ならば村上春樹の文章はどうだろう。村上春樹の小説は現在、多数の翻訳が出版され、世界でも読まれている。ということは村上春樹の文章は癖のない文章なのだろうか。村上春樹は知ってのとおり、アーヴィングの翻訳を出したり、カーヴァーの熱烈なファンであるし(翻訳も出している。というか日本にカーヴァーを紹介したのは村上春樹だ)、アーヴィングの師匠であり創作科の教授であるカート・ヴォネガットも大好きだ。村上春樹が処女作の『風の歌を聴け』でヴォネガットの『スローターハウス5』を真似したのは周知の事実で、村上春樹の小説は彼らの影響を受けていると断言できる。アーヴィングやカーヴァーは創作科の出身であり、ヴォネガットは創作科の教授だ。そんな彼らの文章から学ぶということは、ほとんど創作科で学ぶことと同じではないだろうか(とはいえこれは暴論だが)。
 ここからは実体験である。
 私は創作科に所属しているので、おなじ創作科に所属している仲間たちの文章を読むことはたびたびある。入学して当初の彼らの文章は下手ではあるが、個性的であった。それが学年を経るごとに凝ったことをするようになり、そして文章は読める文章になってゆく。これこそが癖のない文章であり、多くの読書家がすんなりと読めてしまう文章だ。私はこの文章を悪いとはまったく思わない。なぜなら多くのひとに読んでもらえるというのはとても嬉しいことだし、癖のない文章というのは村上春樹のように翻訳されて海外に紹介されやすい。癖のないというのは、人種も飛び越えて読みやすい文章なのだ。
 ということは創作科で学ぶと、日本国内だけではなく、海外にも通用するような文章が書けるようになるということだ。
 だが、日本の純文学は癖のない文章だろうか。芥川賞を取った作品を読んでみてほしい。合う合わないというのがはっきりしているはずだ。それは、芥川賞が若い作家たちに与えられているからであり、若い作家が書く文章というものは、若い文章だ。最初は若い文章でいいのである。というより、純文学というのは若い感性(新しい感性)というものを喜んで受け入れる。
 ならば、若い文章、つまり癖のある文章でいいのだ。
 創作科で学び、癖のない文章を書けるようになった私たちは広く読んでもらえるという道具を得ている。なおかつ私たちは癖のある文章も書ける。私たちはデビューした後は、野良の小説家たちよりも幅広い小説が書けるし、広く受け入れやすい小説を書くこともできる。もちろん小説でなくともいい。エッセイや旅行記でもいい。私たちは仕事として文章を書いてゆける。
 文章をなりわいとしたいひとは創作科に入ることは悪いことではない。きっとプラスになるだろう。あとひとつ創作科に入ったら得られるメリットをいうとしたら、同好の士が得られるということだろう。創作科は上質な文芸サロンだ。
 現在の日本ではまだまだ創作科の認知度は低い。文章なぞ学ばなくても書けるし、そもそも小説というものは学べるものなのか、という問いはつねに存在するだろう。私たちはそれに頷くだろうが、続いて、けれども文章で食べていくための武器は手に入る、といいたい。