転々し、酩酊

すなわち、世界ではまだ何一つ最終的なことは起こっておらず、世界の、あるいは世界についての最終的な言葉はいまだ語られておらず、世界は開かれていて自由であり、いっさいは未来に控えており、かつまた永遠に未来に控え続けるであろう、と。(『ドストエフスキーの詩学』P.333)

百田尚樹のツイッターを考える

作家のツイッターの使いかた

 表現者は自身の作品にたいしての評価というものは気になるものだ。だから、エゴサーチをして自身に関する言論をさがす、というのは当然の帰結であろう。人気作家にもなると、ツイッターで言及される数が多くなるだろうから、簡単に見つけられるし、エゴサーチはとても便利であると思う。
 ただ、百田尚樹氏は批判をするアカウントをわざわざ自分から見つけだして、ブロックしてたというのだ。批判を受け止めるのではなく、批判を無視するというわけでもない、見えない批判をもっと見えないところに押し込める、といったことをしているのだ。もしくは、批判する者の言論がもしかしたら見えてしまうかもしれない、という可能性を無くすためにブロックをしているのだ。
 批判の声を受け止めてもっとよい作品をうみだす、というのが表現者のありかただ、ととらえるひとは多い。そのため百田尚樹氏のこの姿勢は批判をあびることであろう。だが、もちろんこの姿勢が間違っているとは思わない。批判を聞いてしまうとなにもうみだせなくなる人なのかもしれないし、そもそも作品をよくしようと思っていないのかもしれない。それはひとそれぞれの考えかたである。
 とはいえ、こういった姿勢を言葉にし、発信することによってどのような反応がかえってくるか、というのはすこし考えればわかることである。百田尚樹氏はこのツイートをすることによってどのような反応がかえってくるかわかったうえでツイートをしたはずである。


言葉とは曖昧なもの

 しかしときには自分が発した言葉がちがうように伝わってしまうことがある。というより、言葉がまったく完璧に相手に伝わることなど、ほとんどないといってよい。もちろん簡潔な文章で、コンテクストがはっきりし、時系列もはっきりし、なおかつ相手がきちんとした素養を持っており、自分もきちんとした素養を持っている、といったときにはほぼ完璧に伝わるであろう。
 百田尚樹氏は曲解せずに、といっているが、言葉を受け取るわれわれには解釈の自由がある。それはもちろん、言葉の意味を逸脱しない範囲ではあるが、自由があるのだ。
 小説というものは、読者が読み、想像し、解釈したものである。
 たとえば、

 わずか三四階のずんぐりした灰色のビル。正面玄関の上には、〈中央ロンドン孵化・条件づけセンター〉の文字と、盾型紋章に記した世界国家のモットー、"共同性、同一性、安定性"。

オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』光文社古典新訳文庫 p.7)

 という引用を読んでもらったと思う。
《三四階のずんぐりした灰色のビル。》という言葉で、読者はどのようなビルを想像しただろうか。それはたぶんひとそれぞれで、世界に二つと同じ《三四階のずんぐりした灰色のビル。》はない。
《盾型紋章》も同様である。
 だが、この言葉たちは形容詞がすくなすぎる。もっと形容詞を増やせば、読者がもっとおなじような想像をするだろうか。たとえば、
『十三・五六メートルのコンクリートの三階建てで、雨風に十二年さらされたせいかよごれており、もとは白だったのであろうが、いまでは灰色にしか見えないビル。』
 と表現するとしよう。だが、ここでも思うことが、どのようによごれているのかがわからない。では、どのようによごれているのか形容するのか? それは無理だ、きりがない。写真や映像ならばできるだろうが、言葉では無理があるのだ。

 小説を書いている人間ならば、言葉というのはひどく曖昧なものだ、ということが存分にわかっているはずである。ちがうように伝わることはよくあることだ、ということがわかっているはずだ。
 曲解とは、故意にねじまげて解釈する、という意味である。もちろん悪いように故意にねじまげられて解釈され、それをさも本当のことかのようにいわれるのは不服であろう。だが、言葉というものは曖昧なものである。百田尚樹氏から見れば曲解なのかもしれないが、受け取ったがわからすれば、素直に解釈した結果なのかもしれない。それがもしかして意図した解釈ではなかったのであれば、そのように解釈されてしまうような文章を書いたほうが悪いのである。

曲解されて困るような文章を発信しなければよい


 百田尚樹氏は曲解をされたくないようであるが、氏のツイートは本を読んだ、というコンテクストがないと解釈できないような複雑なツイートらしい。
 ツイッターというメディアはかなりオープンな代物で、もちろん百田尚樹氏の小説を読んだひとが百田尚樹氏のツイートを読む、ということもあるが、読んでいないひとが氏のツイートを読む、ということも十分に考えられる。となれば、曲解されたくないひとはツイッターというメディアでは、そのようなひとたちが存在する、ということを考えて言葉を発信しなくてはならない。
 まあ、あたりまえのことだ。


百田尚樹以外の作家のツイッターを見て感じたこと

  • しょうもないツイートが多い
  • 宣伝のツイート
  • 事実・出来事を報告するツイート
  • ネタ

 米澤穂信氏のツイッターを見てもらえればよくわかると思うが、ほんとうにしょうもない。おもしろくない、という意味ではなく、バカバカしいなー、益にならんなー、といった意味である。
 だが、米澤穂信氏のツイートが文句をいわれることはないだろう。文句の種になるのは、思想を含んだツイートや、議論などだ。百田尚樹氏以外の作家は思想を含んだツイートや、議論はほとんどしない(するにしても中立である)。ツイッターというメディアは、そういったはなしに向いていないとわかっているからだ。
『簡潔な文章で、コンテクストがはっきりし、時系列もはっきりし、なおかつ相手がきちんとした素養を持っており、自分もきちんとした素養を持っている』という条件をツイッターは満たしにくいのだ。
 誤解や曲解が起きやすいツイッターというメディアで、思想を含んだツイートをするというのはひかえたほうがよいだろう。議論に発展する可能性を孕んでおり、かつ議論には向いていないからだ。
 ただ、一方的に発信したいだけならばツイッターは便利である。それが、有名なひとであるならば見てくれるひとも増えるので、なおよいだろう。



すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

 冒頭を引用した。