転々し、酩酊

すなわち、世界ではまだ何一つ最終的なことは起こっておらず、世界の、あるいは世界についての最終的な言葉はいまだ語られておらず、世界は開かれていて自由であり、いっさいは未来に控えており、かつまた永遠に未来に控え続けるであろう、と。(『ドストエフスキーの詩学』P.333)

『泣くな、はらちゃん』が媒体としてエロゲでもマンガでもラノベでもなくドラマを選んだ意義

 斜め見ながらも、九話まで視聴終了。
 九話は傑作である。これが最終回かー、と思ってしまうほどであった。いいバッドエンドじゃないか、と。しかし、まだ続くらしい。どうやって解決するのか楽しみである。
 九話の終わりかたは甘いバッドエンドだ。自分自身が別の世界に行く。既存の物語でもよくありそうな終わりかただ。
 この解決の仕方を逃避だというのはたやすいが、冷静に考えれば現実的だし賢い選択だ。現実にこのドラマと同じことが我々に起こったとしたら、この解決法を選ぶ人が多いはずだ。しかしこれは根本的な解決に至っていないのだからバッドエンドである。エロゲ的にスタッフロールが流れるバッドエンドである。
 たとえばkeyのようなシナリオの場合、はらちゃんたちが三次元世界に留まりすぎていたせいで、三次元世界の存在として認められるようになったのだ! といった奇跡が起こってハッピーエンドだろう。
 一見稚拙だが、ハッピーエンドにするにはこうする他はないのだ。このような物語は私はあまり知らないのだが、ない頭を絞って考えても完璧なハッピーエンドは思いつかない。いったい『泣くな、はらちゃん』はどのような解決法をみせてくれるのだろうか。

 タイトルで書いたことに言及するのを忘れていたが、そう大した話ではない。
 エロゲ、マンガ、ラノベ、などの二次元作品で二次元作品を扱い、解決法を提示した場合。その解決法は結局、二次元作品の中で示されることになる。これの読者はその解決法を見たり読んだとして、「まあ所詮は二次元の中での話だからな」ということになりかねない。現実の、生きている私たちに響かないのだ。
 しかし、現実に生きている人間が演技をし物語を作っているドラマの場合、受け手の私たちは(エロゲetcより)リアリティがあるものとして認識する。ドラマはフィクションである、ということは勿論わかっているが、現実の人間が演じていることで、身近なことであると感じるのだ。
 二次元の世界に行きたい、と考えるオタクはこのドラマを見たほうがいいのか、それとも見ないほうがいいのか最終回がまだなのでわからないが、しかし確実に多大な影響を及ぼす作品であるとは言える。二次元の物語ではなく、ドラマという三次元の物語であるからこそ大きな力を生むのだ。

 しかしドラマを三次元であると断定してよいのだろうか。二・五次元であるというほうが正しい気もするが、その場合であっても二次元より高次元であることは変わりがないので、私たちに与える影響は二次元よりも大きいと言える。

『泣くな、はらちゃん』の脚本家である岡田惠和氏は、かの『ときめきメモリアル』の映画の脚本を手がけたことがあるようである。
 でも、あんまり関係ないだろうなあ。