転々し、酩酊

すなわち、世界ではまだ何一つ最終的なことは起こっておらず、世界の、あるいは世界についての最終的な言葉はいまだ語られておらず、世界は開かれていて自由であり、いっさいは未来に控えており、かつまた永遠に未来に控え続けるであろう、と。(『ドストエフスキーの詩学』P.333)

幻翼浮遊

幻翼浮遊


 背中の翼がひどく痛む。周りの人間は「翼がないのに痛むはずがない」と言う。または「それは幻肢痛というものだ」と、頼んでもいないのに説明をしてくる人間もいる。幻肢痛についてあのやらしい笑みで説明してくる彼の顔を思い出し、翼の痛みにも拍車がかかった。
「ずいぶんと空を飛びたがっているみたいだねえ」
 わたしが学校の屋上で翼をどうにか動かそうと頑張っていると、彼が急に現れてわたしの背中を撫でた。何のひっかかりもなく、わたしの背中は青年に撫でられる。やつのせいで、わたしには翼なんてないことを再認させられてしまう。
「やめて。それに、不法侵入よ」
「大丈夫。校長とは知り合いだから」
 などとすぐに嘘だとバレそうな言葉を吐きながら、彼はわたしの背中を撫で続ける。
「痛みは?」
 舌打ちをして、痛みが引いていく背中を情けなく思った。どうにも気持ち悪いので、彼の手を背中を震わせて振り払う。二歩前に逃げてから、相対する。
「ああ、あなたも同じ気分を味わえばいいのに」
 嘲笑を交えて言うと、彼は顔をうつむけて肩をすくませた。言わなければよかった、という言葉が浮かんできて、余計に惨めな気持ちになった。
「飛べない気分を?」
「そう」違う。
「簡単だね」
 男ってほんとに、って言ってしまいたい。何も考えていないその返事。わたしの言葉は伝わっていないのだろう。
「もういい」
 夕焼けを背景に飛ぶカラスの群れを眺める。鉄塔と電線が黒いシルエットになり、カラスが影絵のようになめらかに飛んでいる。なんて陳腐なノスタルジー。でも、わたしはこれが好きなのだ。この光景をわたしはずっと飛んでいたい。
 視線の端を、黒く小さなものが飛んでいった。何かと思って飛んできた先をみてみると、彼が無表情で小石を投げていた。
「なにしてるの」
「飛んでる」
 彼は校庭に落ちていく小石を指差しながら言った。飛んでる。確かに。
「翼がないのに、おかしいだろ」
「そうね」
 わたしの素っ気ない返事は残酷だっただろう。彼は小石を投げることをやめて、寝転がった。あまり寝転がらないほうがいいだろう、と思ったが、わざわざ口に出すようなことでもない。空を仰ぎみている彼に近付いて、スカートの中がみられてしまう手前で彼を見下ろす。無表情をつらぬく彼がおかしかったので、もう一歩だけ近付く素振りをみせる。彼の黒眼が一瞬こちらをみてから、元の位置に戻る。
 ばかね、と呟いてから彼のすぐ側まで近付く。彼は目を閉じた。
「開けなさい」
 命令は逆効果だったようで、彼はわたしと反対側に顔を倒し、目を思いっきりつむっているのがわかる。お腹が震えているからそうとう強くつむっているみたいだ。わたしはそのお腹にまたがって腰を降ろす。彼の目元にたくさんシワが寄っているのがよくみえる。お腹がひどく震えている。
「わたしを飛ばして、その大きな翼で」
 そう言うと、彼は目を閉じるのをやめてわたしの目をみつめる。
「それはできない」
 わたしはどうしてと言ったが、同時に彼が身体を起こそうとする。彼のふとももに座りなおして、彼が上体を完全に起こした。顔が近い。
 彼はわたしの背中に腕をまわして、翼の付け根の部分を撫でた。何もない。
「何もないでしょう。あなたにはそんなに大きな翼があるのに」
 わたしは彼の背中に腕をまわして、そこから生えている翼を撫でた。寝転がっていたせいで、すこし平らになった翼をしごいて整える。
「ぼくも飛べないんだ。翼があるのに」
 何を言っているのかわからない、という表情をすると、彼が奥歯を噛みしめて翼に力を入れ始めた。辛そうな表情を、はじめてみた。こんなに近くでみるのが衝撃的で固まっていたらしく、彼に腕をつかまれるまで彼が何か言っていることに気がつかなかった。
「根本、触ってみてくれ」
 彼に誘導されながら翼の付け根に触れると、他の肌よりも体温が高くなり、小刻みに震えていた。
「無理なんだ、動かすのは」息を切らしている。暖かい空気が頬にかかった。
 うそだ。だって、翼があれば飛べるのに、翼があるのに飛べないなんて、おかしい。わたしには翼がないから飛べない。翼を失ってしまったから、飛べなくなってしまったのだ。でも、彼は目にみえて翼を失ったわけじゃない。飛ぶ、ということだけ失ってしまっている。
「辛くないの」
 彼はうなずこうとしたが、首を横に振った。うそだ、とわたしが言うと、彼はわたしを抱き締めて背中を撫でた。飛びたくないの、と彼の胸に向かって喋る。抱き締められたままだと、彼にもわたしにも声が響いているのが感じられる。飛びたい、と答えたのは彼の身体全体から響いてきた。切実に聞こえた。
「じゃあ一緒に飛びましょう」
 彼はさんざん迷ってから首を振った。賢明な判断だ。わたしも、彼も、飛べない。だからわたし一人だけで飛ぼう。
 彼の身体から離れる。風が涼しく感じられた。彼に背を向けて、屋上から遠くをみる。さきほどよりも暗くなっていた。天頂はもう紺碧になっている。飛べていた日々を思いだしたかのように、足が勝手に動いて縁まで歩いていく。
 飛ぼう。と思った時には足を踏み出していた。振り返ると、彼はじっとわたしをみつめていた。驚いた表情でもなく、嬉しそうな表情でもなく、ただわたしが飛び出そうとしていることをただ眺めているだけ。こんな感じだったっけ、と現実感のない足取りを思いながら屋上の縁から身を投げる。
 わたしのこと、うらやましいだろうか。
 風を切る音が聞こえる。ずいぶんと久しぶりの音だ。下から身体を持ち上げる大気。頬に当たる冷たい空気。髪が空に広がる。空を飛んでいる。

『幻翼の天使』No.1

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